ふるさと・自然・文化
おもに政治(家)漫画で知られた那須良輔先生ですが、晩年は水彩画や淡彩といわれる技法を用いた風景画、静物画にも精力的に取り組み、自然や食をテーマにした随筆も多く残しました。
戦後から高い評判を呼んだ、政界を批評する表現者としての活動をやや緩めつつ(常設展コラム(1)「国際社会・文明」参照)、文化人としての活動が活発化していきます。
こうした活動の背景には、生まれ育った湯前・人吉球磨の自然への愛情がありました。
「細い下がり目をいっそう細めての、少年の頃の野山や古里の動植物に関する話は夜更けまで尽きることがなく、雷というより自由奔放甘えん坊のガキ大将ぶりは身近な存在でした」
【永田瑞穂/甲佐高校教諭】 (『追悼 那須良輔』,湯前町教育委員会,1992,p141) |
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「四半世紀以上を通じて、決して深いおつき合いとは言えなかったが、その中から感じられたことは、先生の“ものの見方”の基本に、常に、少年時代を過ごされた故郷湯前の自然が強くあったことである。 ……(中略)……少年時代のお話をされるときの先生の表情には、いつも、故郷の自然への暖かいまなざしがあった。 そして、同時に、お話の節々に、自然への鋭い洞察があったことを思い出す。 そのような話を伺いながら、物の考え方や、感性を磨く総ての基礎を形成する多感な時代を、与えられた環境の中で、精一杯活用して生きていくことの大切さを教えられた」
【山手正彦/東芝】 (同,p148) |
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また、那須先生が絵を一生の仕事とするに至った原点も、少年時代の生活にありました。
「その頃、絵はほとんど紙に描かないで、広い庭の地面に、棒切れで大きく描くのが好きだった。 ……(中略)……こうした生活の中から、自然に絵を描きたくなるのが純粋な絵心というものだろう。 絵は、テクニックの上手、下手を問う必要は少しもないのである。 恐れず、ためらわず、描きたいものを描いているうちに、だんだん自由に表現出来てきて楽しくなってくるのである」(p11)
那須良輔(1986)『墨絵カット歳時記』,知道出版. |
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ギャラリー
現在「ふるさと・自然・文化」ゾーンに展示されている作品は、以下の通りです。
「柿とり」「餅焼」は、那須先生の少年時代を思わせるような男の子が描かれた作品です。
特に、柿の木の上に登るわんぱくな少年は、那須先生の人柄を知った後で見るとまた違った趣があります。
「球磨川下り」は、今日でも人吉球磨に受け継がれている川下りの文化を伝える作品で、釣り好きな那須先生は「ウマハギ ホウボウ メゴチ カマスの子」「むつごろう」など、どこかコミカルな魚の絵も多く残されています。
「鮎の塩焼」からは、酒好き・美食家の一面も垣間見えます。毎日新聞社社員(※当時)の青木利夫さんは、那須先生と鮎について次のような回想をしています。
「囲炉裏の炭火のまわりに串刺しの鮎を刺し、焼き上がりをむさぼる。 ……(中略)……那須さんがそこに同席していたら「うん、那珂川の鮎はなかなか旨い。球磨川の鮎の次に旨い」ということになっただろう。 鮎といえば、那須さんは随分鮎の絵を描かれたし、教えていただいたこともある。 昭和五十二年前後、毎日新聞家庭面に『私の絵暦』のタイトルで、絵とエッセーを連載されていた。 私は当時、その面の担当デスクだったこともあり、一部まとめて出版されるのに当たって、一夕お誘いを受けた。 その場所は、今は特定するほど定かには覚えていない。東京・新橋の烏森の一角である。 そこで酌み交わしながら、鮎の背開きを教えていただいた。 その店は島根県の鮎を使うということで、早速そこで、背開きを賞味した。 生乾きの背開きは、ごく少し醤油かけて食べると、えも言われぬ味がして、酒好きの私にはこたえられなかった」
【青木利夫/毎日新聞社】 (湯前町教育委員会・編『追悼 那須良輔』,湯前町教育委員会,1991,p49-50) |
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また、歳時記や風景画の制作と同時に、その柔らかな描線を活かした絵本の挿絵(椋鳩十・編『いたずらわんぱくものがたり』、与田準一『かえるのあまがさ』他)でも、那須先生は多くの作品を残しました。
こうした仕事の延長線上にあるといえるのが「蛙の楽隊」「河童・鯰」といった作品群です。
ユーモラスで独特な味わいのあるキャラクターたちは、性別や年齢を問わず、見る者の心を楽しませてくれます。