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【常設展示室コラム(3)】政治諷刺

最終更新日:

政治諷刺

 自由にマンガを描け、時代や政治家を諷刺できる世界を熱望していた那須良輔先生にとって、敗戦は創作活動の追い風でした。


 「戦時中は政治漫画といえば、戦争協力の作品以外は発表できなかった。敗戦をむかえてはじめて自由な作品が描けるようになり、私を含む多くの政治漫画家達は、翼を得た鳥のように政治諷刺の漫画を発表しはじめたのである」(p260)

那須良輔(1985)『漫画家生活50年』,平凡社.


 1949(昭和24)年、横山隆一の推薦※により、那須先生は東京毎日新聞嘱託の政治漫画家になります。

 「那須良輔」の名を特に世間に知らしめたのが、内閣総理大臣・吉田茂の似顔絵および風刺漫画でした。




 「いったい、吉田さんの顔くらい数多く漫画にかかれた人はいないだろう。当時、鎌倉に現れた吉田さんを子どもがみて、なんだ、漫画に似ていないじゃないか、といった話さえのこっている。漫画のおかげで、吉田さんの顔が大変有名になり、吉田さんのおかげで、漫画家のカセギもよくなった。吉田さんが講和会議に出発する前に、目黒の外相官邸で会った節、君、ボクのモデル代が大分たまっているはずだから、よこし給え、とさいそくを受けたことがある。その節、私は、私の吉田さんの似顔や漫画を中共の新聞で無断で使用しているから、その版権料を、政府の手でとっていたゞいたら、さしあげます、と答えた。……吉田さんの、コップの水かけ事件、ステッキ振りあげ事件は、なかなかファイトとユーモアがあって、漫画にしても明るいものだった。たしかに政界漫画家にとって、吉田ワンマンは上等のモデルだったのである」(同,p115)


 仕事の評判は上々で、昭和27(1952)年には「週刊東洋経済」で政治漫画・随筆の連載もスタート。

 その後も大衆誌・漫画雑誌で活躍し、昭和34(1959)年には、過去10年間の毎日新聞紙上での仕事をまとめた著書『吉田から岸へ』(毎日新聞社刊)を刊行するなど、政治漫画家としての地位を揺るぎないものにしていきます。この『吉田から岸へ』は、那須先生が自作を語った貴重な資料の一つです。


※推薦のいきさつ 
「社の許可を得て私は那須君をさそった。すると那須君は「まだそんな腕ではないので、いづれ勉強してからお願いする」とことわられた。するとそばに居た漫画集団の連中が、俺にやらせろ、俺の出番だとやりたがった。そこで那須君に新聞社の漫画家はこれ迄、一度はいると、仕事が面白くなつて、誰も自分からやめる人もいないし、余程の失敗のない限り、席を追われることもない。君が新聞社にはいりたいと思った時には、残念ながら、もう席がないだろうと言った。私のその一言で那須君は毎日新聞にはいる決心をしたと思う。其の後、新聞社の重役に会ったら、那須君は猛烈漫画家で国会のある時は、連日、国会へ詰めて、すごい勉強ぶりで、皆んなをびっくりさせているときいて安心した」

【横山隆一/漫画集団】

(『追悼 那須良輔』,湯前町教育委員会,1992,p152)




ギャラリー


 「政治諷刺」ゾーンに現在展示されている作品は、以下の通りです。

 政治諷刺という時代性の濃い表現の特性上、当時の社会情勢をふまえた解説文を付し、解釈の一助とします。



絵画作品


 新聞漫画とはまた異なる魅力を持つ、多彩な技法や画材を駆使した大作が揃っています。

  • 「新党乱立」(制作年不詳)

 制作年こそ記録が残っていませんが、1955年11月の自由党と日本民主党の合併(保守合同)がなされていない時期に描かれたものと考えられます。また今作を『漫画家生活50年』の「再上京」の章に那須先生ご本人が収録しているところからみると、1948年春以降、1955年11月以前の作と推定されます。戦後~1950年代前半にかけて、保守・革新を問わず雨後の筍のように乱立した新政党たちの変わり身の早さを風刺した作品です。


  • 「からす」(1956年5月)

  • 「からす」(1956年9月)

 「からす」は、1956年5月版と9月版の2バージョンが存在します。

 それぞれ若干寸法や色彩が異なりますが、顔・背景の描きこみがより緻密な9月版が完成作と思われます。

 著書『吉田から岸へ』(1959年、毎日新聞社)で那須先生は、本作品について「自民党内の限りなき内紛は国民の目に、ようやく保守党は「白いひつぎ」をかつぎ出した。という印象をあたえだした。病人の鳩山、重光、老人の三木、大野、大麻、黒い衣の一団は日本政治の坂道をよろめきながらおりてくる。どこかでからすの群が不吉なざわめきの声を立てているようだ。きこえたか、あの声。」(p74)と述べています。

 保守合同後の自民党内の派閥争いや、旧弊的な体質をテーマにした作品です。


  • 「防空壕」(1958年9月)

 三人の政治家(右から河野一郎、三木武夫、左藤義詮)が国会議事堂という「防空壕」の中で耳を塞ぎ、上空にはグラマン、ロッキードというアメリカの航空機メーカー2社の飛行機が飛んでいます。暗く不穏な色の空には札束が飛び交っています。

 1958年当時の日本は、第1次防衛力整備計画(戦後初の大規模軍備計画)に伴い、航空自衛隊が新しい戦闘機の導入を検討していた時期でした。

 同年4月14日に一度はグラマン社の機体の導入が決定しますが、8月22日の衆議院決算委員会において、この決定についての不正(汚職)疑惑が取りざたされます。

 結局疑惑は立証されなかったものの、導入する戦闘機はロッキード社の機体に急きょ変更されました。

 三度の出征経験があり、戦争に対する強い怒りを創作の原動力としてきた那須先生にしてみれば、「政治家個人の権益に結びつく軍備増強」という疑いがつきまとうこの問題は、描かずにはいられないテーマだったでしょう。


  • 「ロッキード行革百鬼夜行」(1983年頃)

 1983年、中曽根内閣は三公社(日本専売公社、日本国有鉄道、日本電信電話公社)の民営化などを含む行政改革をスタートします。

 同内閣はトップダウン方式の高いリーダーシップを評価される一方で、田中角栄元首相の影響下にあるとされ、メディアからは「田中曽根内閣」「角影内閣」などと揶揄されました。

 同1983年10月12日、ロッキード事件丸紅ルートの一審判決公判(東京地裁)が開かれ、田中角栄元首相には懲役4年、追徴金5億円の実刑判決が下されました。

 自民党内からも田中の議員辞職を要求する声が上がりましたが、田中は判決を真摯に受け止めるとしつつも辞職の意志はないと表明。

 同年12月の衆議院議員総選挙で、自民党はあわや過半数割れという厳しい結果となります。

 これを受け、第一次中曽根内閣は総辞職し、第二次内閣での「脱田中」を宣言しますが、閣僚の6ポストには依然田中派が就き、政治家としての田中の影響力は衰えませんでした。

 権謀術数渦巻く不透明な政界を、魑魅魍魎が夜道を練り歩くさま=「百鬼夜行」になぞらえた作品です。


  • 「ご難! 大平首相」1980年6月

 1980年6月、当時の政局に大きな影響を与えた大平正芳首相の急死を“とかげのしっぽ切り”にたとえた作品です。

 下馬評では不利になると見られていた自民党が、大平首相の“弔い選挙”(衆参同日選挙)に大勝したことにも関係していると考えられます。


 「当時、政局は自民党内の主流、反主流派の激突で大揺れに揺れていた。五月一六日には、社会党提出の大平内閣不信任案が、自民党内の反主流派六九人の本会議欠席により可決成立、一九日には解散となった。当然ながら「今週の問題」は毎号のように政局をテーマに取り上げたのだが、トツ弁の大平首相が、まるで人が変わったように昂揚して選挙演説をぶつテレビシーンをみたとき、座談会中に珍しく那須さんが口を開いて、「大平さんは異常だ」と主張した。その数日後に、大平首相は心筋梗塞で緊急入院。入院が長引いたため、重病説を否定すべく病室で二分間だけ記者会見に応じた。その顔写真を見て、那須さんは「これは普通ではない」と座談会で断言し、……(中略)……その二日後に大平首相は急死した。那須さんは、大平首相の記者会見をみて、直感的に不吉な予感がしたという。一芸に通じた人の目の鋭さを、このときほど実感したことはない」

【佐藤佐三郎/東洋経済新報社】

(『追悼 那須良輔』,湯前町教育委員会,1992,p.131-132)



  • 「政界ドラキュラ」1980年6月

 首相退任から20年経っても政界に強い影響力を持ち続ける岸信介氏をはじめ、田中角栄氏、浜田幸一氏ら重要人物の暗躍を描いた作品です。


 「那須さんの作品に「政界ドラキュラ」というのがある。岸元首相を中心に、浜幸氏、角栄氏が両脇に、いずれも黒マントに身を包んでいる…政界の裏でキバを剥く黒幕たちが迫ってくる…ギョッとするような墨色の冴えた作品である。この絵を見て感動こうふんしたぼくは即刻、感想の一文を書き送ったものである。……(中略)……岸氏ぎらいで通した那須さんも、岸氏もいまは世に亡い」

【吉田幸夫/漫画集団】

(『追悼 那須良輔』,湯前町教育委員会,1992,p93)



  • 「連合政権サーカス(ピエロ)」(1980年6月)

 1980年1月、当時の社会党と公明党が合意した、「社公連合政権構想」の“大綱”を、サーカスの“綱渡り”になぞらえたような作品です。

 暗闇の底に浮かび上がる観衆たちが、ピエロ=飛鳥田一雄社会党委員長の動向を、かたずをのんで見守っています。




新聞漫画

 那須先生の好んで描いた”吉田首相もの”(「平次捕物帳の内」「これならおぼれまい」「ご苦労さん」)、対照的に嫌っていた岸信介首相を描いた「きたない公約」は、いずれも1950年代に毎日新聞紙上に掲載されたのち、著者自身による解説付きで『吉田から岸へ』(那須良輔,1959,毎日新聞社)に収録されました。

 以下、那須先生ご自身による作品解説をご紹介します。


  • 「平次捕物帳の内」1951年5月頃


 “地下に潜入した共産党の徳田書記長が、東京都吉祥寺の前進座の寮にいるらしいとの情報に、当局は26年5月のある朝370名の警官を動員したが、ネズミ一匹現われなかった。”(p16)




  • 「これならおぼれまい」1951年7月


  “講和会議に、はじめ吉田首相は行きたがらなかった。そのため主席全権に佐藤参議院議長、野村吉三郎氏らの名があげられたが世論はしだいに首相の出馬を希望するようになったので、首相もついにおみこしをあげる決意をした。”(p18)



  • 「ご苦労さん」1951年8月


 “講和会議は、49ヵ国が参加して平和条約を調印した。このあと日本はアメリカとの間に安全保障条約を結んだ。これがくせものだと国内では、再軍備、国内基地化、の問題などとからんで論議のマトになった。”(p19)



  • 「きたない公約」1958年4月頃


 “三悪追放を唯一のカンバンにかかげていた岸首相は、いつのまにか、カンバンをウヤムヤにしてしまった。さてこんどの選挙でどんな公約をかかげるのか、また再び口から出まかせ、でたらめ公約なら、まさにトイレットペーパー公約だ。”(p94)




*その他参考図書

昭和史研究会・編(1984)『昭和史【事件】【世相】【記録】事典 1923-1983』,講談社.


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